【東洋のパナマ運河】大河津分水路 建設の経緯
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 Published On Dec 10, 2022

【誤読】
6:24 頃、床固め(とこがため)と読むべきところを、(ゆかがため)と誤読しています。

【補足】
大河津分水路を「東洋のパナマ運河」とみなすこともあります。これは、もちろん当時の最新技術を駆使した大土木工事であったことに由来しますが、それだけではありません。動画内で紹介している宮本武之輔とともに、彼の元上司である青山士も工事に参加しています。彼は以前に日本人唯一の技師として本場のパナマ運河の工事にも参加していました。大河津分水路には、彼が異国の地で得たノウハウを活かした日本土木界の傑作であるという意識や、この分水路がすべての人類にとって有益な遺産となることの自負が込められています。
1996年(平成8年)に本流側の堰である洗堰の更新工事が始まり、2000年(平成12年)に完成しました。使用されなくなった旧洗堰は産業遺産として国の登録有形文化財に登録されています。

【参考文献】
物語 分水路 ―信濃川に挑んだ人々― 田村喜子 鹿島出版会

【テキスト文字起こし】
 ご覧いただいているのは越後平野の様子です。日本一の長さを誇る河川・信濃川の河口が映っています。一般的に、河口は新潟市とされていますが、その流れを短絡するように、長岡市にもう一つの河口が存在します。これが、大河津分水路です。大河津分水路は、全長9.1kmの長さの、幾何学曲線を描く分水路です。河口へ向かうほど川幅が狭くなっており、通常の河とは逆の形状をしていますが、これは、河口付近の山地の掘削土砂量を減らすことや、流速を早め、洪水時により多くの水を流すことを目的として設計されたためです。本川・分水の分派点にはそれぞれ堰が設けられています。本川側には大河津洗堰、分水側には大河津可動堰があり、普段は洗堰を開き、270㎥/sまでの量を流し、それ以上は可動堰から分水路に放流するようになっています。これより本川の下流側が洪水の時には洗堰を閉じ、信濃川の全水量を分水路から直接日本海に放流する一方、渇水時には可動堰を閉じ、全水量を洗堰から本川へ流します。この大河津分水路は、信濃川の流量を減らして下流の氾濫を防ぐために明治時代に着工されました。しかし、この分水路が安定稼働を開始したのはそれから20年以上後の昭和年間に入って以後のことでした。今回は、大河津分水路の着工から稼働までの経緯を追ってみます。

 江戸時代、信濃川は幾度も氾濫し、下流域に大きな被害を与えてきました。1842年(天保13年)には、分水建設に向けた幕府の測量調査が実施されましたが、莫大な費用と住民の反対により挫折しました。明治維新の後、越後府に対しての分水建設の請願が相次いだことから、政府は1870年(明治3年)に分水路の第一期工事を開始しました。しかし、信濃川の水運が途絶えるという水産業者たちの反対の声を受けて政府から派遣された外国人技師から、信濃川の流量の減少によって沿岸からの砂の堆積が進み、河口部の水深が浅くなることで、新潟港に大型船が入れなくなるという報告がありました。これを受けて、当時、お雇い外国人の意見を優先させていた政府は、1875年(明治8年)に工事を中止しました。翌年から、分水路の代替として、「信濃川河川改修事業」のもと堤防の改修工事が行われていました。この時、河川敷に生息するツツガムシによって古典型つつが虫病が蔓延し、多くの労働者が犠牲になりました。しかし、地元民が分水の建設を諦めたわけではありませんでした。1882年(明治15年)から分水工事再開の請願が活発化し、新潟県議も満場一致で分水工事のための測量を内務省に建議しました。

 こうした中、1896年(明治29年)7月、信濃川上流の豪雨により川の水位が上昇し、各地の堤防が破られました。住民たちが逃げる間もなくあらゆる方向から次々に水が押し寄せ、家屋五百戸が流失、四万戸が浸水し、多くの死者を出しました。六万ヘクタールもの農地が約一か月浸水し、もはやその年の収穫が全く見込めないほどでした。「横田切れ」と呼ばれるこの水害により極貧に陥った農家は、娘を売り、幼子を里子に出したといいます。また、1905年(明治38年)には、特に大きな洪水がなかったにもかかわらず、湛水による被害が続発しました。こうした状況を鑑みて、1907年(明治40年)に政府は第二期工事に着手しました。起工式には多くの余興や模擬店が並び、今後の新潟の発展を約束するともいえる行事だったようです。大型の蒸気機関車21両、トロッコ3729両、移動掘削機16台など、最新の機械を多数導入した大掛かりな工事は、「東洋一の大土木工事」とも言われるほどでした。工事は内務省の直轄で行われたため、基本的に地元の農民が労働を担いました。彼らはこれまで数多の水害に苦しんできた人々であり、極寒の真冬にもかじかむ手で黙々と作業を進めたという記録も残っています。こうした作業を経て分水路は完成に近づき、周囲の湛水地は、みるみる乾田へと姿を変えていきました。しかし、ここから、幾度も地すべりの被害を受けることになります。最初の地すべりは1915年(大正4年)のことでした。崩れた山は分水路を埋め、その上に土を盛り上げました。分水路だけでなく、工事に使用していた最新型の機械も、あるものは埋没し、またあるものは破損して周辺に飛び散っている、といった状況でした。この地すべりを修復し、地すべり前の状況まで工程を修正するのには2年近くかかりました。しかし、1919年(大正8年)、ようやく軌道が戻ったと思った矢先に、同じ場所で2回目の地すべりが発生しました。この時は事前に地すべりの予兆を察知していたため、機械類に被害はありませんでした。しかし、同時期にヨーロッパで起こっていた第一次世界大戦の影響で物価が高騰し、賃金も上昇したため、結果として費用が大幅に増額され、工事は円滑を欠きました。そんなことがありながら、1922年(大正11年)に大河津分水路は完成しました。着工から13年後のことでした。当時の最先端の技術を駆使して作られたこの分水路は地元民や建設に携わった人々の誇りでした。分水路により、越後平野は穀倉地帯として飛躍的に進歩したのです。

 ところが、通水からわずか5年後の1927年(昭和2年)6月24日、分水路の自在堰3連が陥没し、信濃川の全水量が分水路に流れ込みました。分水路は先述の通り、下流に行くほど狭く、勾配が付くため流速が速くなる設計になっていました。本来であれば、流れによる川底の浸食を防ぐため床固めといわれる工程を踏むべきでありましたが、分水路の地盤がある程度に固かったため、床固めがされていませんでした。結果としてこの判断が甘く、川底が削られ続け、自在堰の土台を揺るがしてしまったのでした。近代技術の叡智を結集して作られた建築物が建設からたったの5年で崩壊したことは、ある意味で日本の近代化の敗北を意味し、当時の技術者たちのプライドをへし折りました。当然、本川下流では渇水状態となり、農業用水を求める農民の間の水争いも起こりました。やがて梅雨に入り、降水によって渇水は解消されましたが、逆に付近は湛水状態となり、分水路には、制御できない水量がどんどん流れ込んでいきました。自在堰の設計を担当した岡部三郎はこの時、応急措置として仮説の締切りを建設していましたが、その作業中に、自身が作った自在堰が新たに3連沈んでいくのを目の当たりにしつつも、岡部は残された2連の「我が子」を守るために奮闘しました。分水路の復旧のために、宮本武之輔が新潟を訪れました。彼と岡部とは一高、東京帝国大学工科大学時代の学友でした。これ以降、分水路の復旧工事は、宮本の主導によって行われます。変事から半月ほどたち、内務省は自在堰の回復を断念し、場所を変えて新たに可動堰を建設することを決定しました。補修工事は、常に洪水の危機と隣り合わせでした。ある時、長野県を豪雨が襲い、信濃川が大いに増水した時がありました。宮本は分水路の堤防が決壊して、下流域に大災害が齎される事を危惧し、仮締切を独断で破壊しました。また、労働者たちの間で再びツツガムシ病の流行もありました。苦労は強いられたものの、予定より遅れることなく、1931年(昭和6年)に大河津分水路は安定稼働を開始しました。

 大河津分水路は、洪水を防ぐことで越後平野の排水性を向上させました。これにより、土壌が改善し、高品質米の栽培が可能となりました。また、これまで氾濫の危険のため平野を迂回していた道路などがバイパスされ、交通網がより一層整いました。大河津分水路なしには新潟市の発展はなかったといっても過言ではないでしょう。

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