【全総】第五・六・七次全国総合開発計画(平成10・20・27年)
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 Published On Sep 2, 2022

現在に至るまでの国土計画を順に紹介していきます。(全四回)
平成10年制定の、21世紀の国土のグランドデザイン
平成20年制定の、国土形成計画
平成27年制定の、新国土形成計画です。

第一弾(全国総合開発計画)
   • 【全総】第一次全国総合開発計画(昭和37年)  

第二弾(第二・三次全国総合開発計画)
   • 【全総】第二・三次全国総合開発計画(昭和44・52年)  

第三弾(第四次全国総合開発計画)
   • 【全総】第四次全国総合開発計画(昭和62年)  

第五弾(第三次国土形成計画)
   • 【全総】第八次全国総合開発計画【第三次国土形成計画】(令和5年)  

 日本の国土計画の歴史についてみています。高度経済成長を受け、開発効果の高い都市から開発を進めていく、拠点開発方式、を打ち出した最初の全国総合開発計画、高度成長の加速を受けて開発志向をさらに強めた、第二次全国総合開発計画、石油危機のあおりを受けて開発より住民環境の整備を重視した、第三次全国総合開発計画、東京一極集中を受けて東京の過密問題を高速交通ネットワークによる地方分散で解決しようとした、第四次全国総合開発計画、という順にみてきました。この四全総ですが、非常に開発志向が強く、地方に産業技術拠点や大規模リゾートを設け、更に高速交通網を拡充するという内容が特徴でした。これは純粋に地方創成だけを目的としたものではなく、プラザ合意により円高不況に陥った日本経済にあって、内需拡大政策の一環として投資を喚起する目的もあったのではないか、ということを前回お話ししました。バブル崩壊により、リゾートは破綻、道路公団は負債が拡大し、後世に負の遺産を生んだ面もあります。90年代も半ばに入ると、四全総に代わる新たな全総の制定の話が持ち上がります。
 このころの日本では、政府と国民との間で、まったく逆の動きが起きていました。この時代、政府は地方創成、地方分権を掲げ、東京一極集中の流れを変えるべくあの手この手を打っていました。1999年に地方分権一括法を制定し、地方自治体の自主性を高めようとした他に、分かりやすいものでは、首都移転議論があります。東京にある行政などの首都機能を他の地域に移転し、東京の過密解消と再開発、移転先の地域振興を目指すもので、具体的に三カ所の移転先候補が示されるなど90年代には活発に議論されました。他にも、東京都は新宿に都庁を移転するなど、新宿、池袋、渋谷、さらには大崎や臨海部にまで副都心を広げる構想が具体化して、東京近郊の再開発が進みました。埼玉や幕張、横浜に新都心ができたのもこのころです。五全総の制定にあたり、こうした地方分散の考え方は多分に盛り込まれることとなります。ちょうどIT技術が進展してきたこともあり、テレワークなどによる遠隔地業務が可能になることで企業立地の自由度が向上するため、これまで発展の日の目を見ることのなかった条件不利な遠隔地にも、発展の機会が到来しているとされました。
 五全総は、その名前を変えるところから始めました。全総という言葉は、戦後間もない頃の、特定地域総合開発計画とは異なった、全国の包括的な国土開発計画、という意味が込められています。しかし、言い換えれば国による一元的な開発を定めることともとらえられるようです。こうした意味を嫌い、五全総では、来るべき21世紀を強く意識した、21世紀の国土のグランドデザイン、という名前で制定することとされました。内容の面でも、気候や風土、自然環境の共通性に根差した地域の連なりとして四つの、国土軸、を定め、これらが国土を多様化させてくれるだろうとしています。ただ、これら国土軸の構想は、国民に定着したかというと、決してそんなことはありませんでした。政府の地方分散政策とは裏腹に、国民はむしろ東京一極集中に向かっていたのです。
 バブル崩壊で都心の地価が下落したことを受け、国民は都心回帰という行動をとりました。東京の都心や近郊の人口推移を見るとこの流れはよく見て取れます。東京一極集中の弊害は国民にも認識され、また、地方分権も国民世論の支持を獲得してはいたのですが、それよりも政府の政策によっても抗うことのできない、大きな人口移動の波が起きていたのでした。
 90年代にあれほど意識した21世紀がいざやってくると、もう一つ、今度は決して抗うことのできない大きな変化が起きていました。急速な人口減少がそれです。平成17年、2005年に日本の総人口が戦後初めて減少に転じ、合計特殊出生率が最低の1.26を記録するなど、本格的な人口減少時代がやってきました。こうした中で、これまでの開発計画としての性格を持つ全総は、時代にそぐわないものとなったと言えます。社会が縮小していく時代に、積極的な開発が求められるかといえば、そうとも言い切れないところです。五全総の制定から7年が経った平成17年、2005年に、これまでの全総の法的根拠であった、国土総合開発法を改正し、国土形成計画法と名を変えました。法律の名称から、開発、の二文字を消し去ったことは非常に象徴的です。そして、これをもって全国総合開発計画はその歴史に終止符を打つこととなりました。
 平成20年、2008年には、改正された国土形成計画法に基づいた初の国土計画である、国土形成計画が、福田康夫総理のもとで制定されました。便宜上これを六全総と呼ぶこともありますが、その中身はこれまでの全総とはかなり異なります。これまでの全総は、国内全体に対する単一の開発計画を閣議決定しましたが、今度の国土形成計画では、全体的な方向性を示すものとして全国計画のみを閣議決定し、そのうえで全国を8の広域ブロックに分割し、それぞれが広域地方計画を設定するものです。ここでもやはり、中央集権的で包括的な計画ではなく、地方分権的な国土計画になっていると言えます。
 さて、戦後の日本社会を絡めて国土計画の歴史を見てきました。国土計画史は、大まかに三段階に分けられます。第一段階は、戦後間もないころ、日本経済の立て直しとして、特に電力開発のために水源整備が重視された特定地域総合開発計画期、第二段階は、高度成長以降の昭和時代で、着々と成長する日本に開発意欲が溢れていた、全国総合開発計画期、そして、第三段階が、平成以降の、地方分権的で開発志向を取り去った、国土形成計画期です。これをご覧の皆さんもお気づきとは思いますが、これまで見てきた通り、国土計画は実に社会の雰囲気に影響を受けています。このチャンネルは道路交通に関する話題をメインとしていますから、試しに各段階の末年における国道の路線数と実延長距離、舗装区間延長を見てみましょう。見事に草創期、充実期、現状維持期と区分できるように見えます。多少強引ではありますが、戦後日本社会の状況が、道路整備に多少の影響を与えていることが窺えるのではないでしょうか。こうしたことから、戦後日本史を理解するにあたり、国土計画や道路の歴史を眺める試みも一つの手段と言えるはずです。
 国土形成計画は平成27年に、第二次であるところの、新国土形成計画が制定されて今に至ります。2010年代中盤以降の長期景気回復や、ここ数年のコロナ禍、今年に入って世界情勢不安から原料価格の高騰による世界規模の物価騰貴、さらには記録的な円安が発生しており、社会は一向に安定しません。そのような中で、今後の国土計画はどういった経路をたどっていくのでしょうか。

参考資料
「国土形成計画について~対流促進型国土の形成~」国土交通省 国土政策課 総合計画課
https://www.soumu.go.jp/main_content/...

「21世紀の国土のグランドデザイン」国土交通省
https://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/...

「国土技術政策総合研究所研究資料」国土交通省 国土技術政策総合研究所
http://www.nilim.go.jp/lab/bcg/siryou...

「「都心回帰」による大都市都心の地域社会構造の変動」鮎坂 学 氏
https://www.jstage.jst.go.jp/article/...

「転入超過数の推移 ー 人口の都心回帰(東京圏)」社会実情データ図録
https://honkawa2.sakura.ne.jp/7680.html

「出生数、合計特殊出生率の推移」厚生労働省
https://www.mhlw.go.jp/stf/wp/hakusyo...

「日本の道路の総延長及び実延長」国土交通省
https://www.mlit.go.jp/road/soudan/so...

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