フランシス・フクヤマ ー歴史の終わりー
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 Published On Sep 17, 2022

※恐らく誤字や脱字、若干の翻訳の間違いがあります。

元動画 0:29ー24:52
Francis Fukuyama:The End of History and the Last Man
   • Francis Fukuyama: The End of History ...  

24:52ー35:45
Francis Fukuyama on the End of History Munich Security Conference 2020
   • Francis Fukuyama on the End of Histor...  


・動画の流れ
0:29・「歴史の終わり」の概要
→自由民主主義は、過去に存在した政治体制とは異なり、自己崩壊をもたらすほどの矛盾を持たない人類の本性に最も合った政治形態である。共産主義イデオロギーが打ち破られたことによって、人類の政治・社会的発展の歴史は、終焉を迎えた。

2:13・自由民主主義の概要
 制度的に定義すれば,国家の統治形態として議会制民主主義と複数政党制を認め,かつその運用においては「個人の自由」を重視する政治的イデオロギー。その思想は基本的人権の尊重と権力分立を原則とし,自由市場経済の優位性を主張する点でリベラリズムに力点をおいている。そのため民主主義の思想と両立しえない面が出てくることが指摘されている。(ブリタニカ国際大百科事典)
 自由主義を捨象し、民主主義を純化しようとすれば、フランスのジャコバン独裁や中国の文化大革命のような「多数者の専制」(トクヴィル)に陥る恐れがある。自由主義はそれを掣肘するためのものである。

4:10・「歴史の終わり」に関する誤解
→フクヤマが説く「歴史」とは、「大きな物語」としての歴史。つまりヘーゲル=マルクス的意味での「歴史」であって、個々の歴史的事象を指しているのではない。冷戦の終結とは、「歴史の終わり」つまり、自由民主主義が社会主義イデオロギーを打ち破ったことを意味し、今後、自由民主主義に対抗し得るイデオロギーは現れず、人類の政治・社会制度の発展という歴史の終焉を意味する。つまるところ、人類社会が共産主義社会に導かれるとするマルクスの史的唯物論(唯物弁証法)よりも、自由主義社会に導かれるとしたヘーゲルの非唯物弁証法の方が、正鵠を射ていた。

5:54 自由民主主義成立の二つの要因
1.経済発展
※プラトンの魂の三分説における「欲望や理性」による説明
工業化や都市化の進展は、中産階級を生み出し、彼らは政治参加を求めるようになる。そして、高度に中央集権化された政治・経済体制は、工業化の段階では有効であるにせよ、情報とテクノロジーが主要となる「脱工業化」社会には対応できない。

2. 8:09「認知を求める闘争」による歴史発展
※プラトンの魂の三分説における「気概」による説明
 人間は、経済や自己保存だけを追求する「動物」とは異なり、テゥーモス(気概)を持ち、(テゥーモス(気概)については後述する)自らの尊厳の為に命を捨てさえする。つまり自らを尊厳と自由を持った主体として承認されることを欲する。ヘーゲルによれば、尊厳を持つ人間として認められたいという人間の欲求は、歴史の最初にいた人間を威信を求め生命を賭けた血生臭い戦いへと駆り立て、その結果として人間の社会は、進んで自分の生命を危険に晒す主君の階級と、死への恐怖に屈した奴隷の階級とに分割された。(主君と奴隷の関係性)

10:12・歴史の終焉としてのフランス革命
 「主君と奴隷の関係性」は、不平等な貴族社会を生んだが、主君と奴隷両者とも、その認知への欲求が満たされた訳ではなかった。奴隷は人間として見做されなかったが、主君の方も、自己を承認するはずの奴隷たちが人間として不完全だったからである。その両者の認知の欠陥という矛盾が、歴史の発展を推し進め、フランス革命やアメリカ独立革命などの市民(ブルジョア)革命に結実する。二つの革命は、自由と平等という自由民主主義の根本理念や、かつての奴隷を主君に変えて人民主権や法の支配を確立することで、主君と奴隷との区分を消滅させ、主君と奴隷という不平等な認知の形態を、普遍的かつ相互的な認知の形態へと変化させた。この普遍的かつ相互的な認知を特徴とする社会によってようやく「認知を求める闘争」は終焉を迎え「歴史」は終わる。(マルクス主義者は、自由民主主義=ブルジョア民主主義は階級や貧富の差という問題を解決できず、人々に普遍的認知をもたらすものではないとし、共産主義社会の到来を真の普遍的認知の到来、歴史の終わりと見做す)

11:40『歴史の終わり』はヘーゲルとニーチェの対話
→ニーチェにとって、自由民主主義の勝利は、かつての奴隷が自らの主君になったことではなく、奴隷道徳が全面的勝利を収めたことを意味していた。自由民主主義社会の典型的市民とは、「欲望」と「理性」だけで出来ており、「気概」を捨て去った存在であり、快適な私生活や自己保存を至上のものとし、自らの誇りを捨て去った「末人」であるとニーチェは見做した。

・12:27「認知を求める闘争」について
→人類の歴史のプロセスやナショナリズムや宗教的熱望そして戦争の原動力。「認知を求める闘争」によって、人間は時として自己保存の欲求を超越する。その闘争に勝利したものは主君になり、敗北したものは奴隷になる。

・15:47「歴史の終焉が抱えるパラドクス」とは
→「歴史の終わり」は、人間の魂の大切な要素である気概を奪い去り、人々を動物化(末人化)させる。

・17:23 テューモス(気概)とは何か?
→プラトンは『国家』の中で、人間の魂は欲望、理性、そしてテューモス(気概)によって構成されていると述べた。(魂の三分説)フクヤマによれば、自己保存を超越した人間の「気概」こそが人類の歴史を動かす原動力となる。この点は、先述の「認知を求める闘争」の箇所で述べている。

・18:49 自由主義を脅かすメガロサミア(優越願望)
→フクヤマによれば、人間の「気概」には、メガロサミア(優越願望)とアイソサミア(対等願望)という二種類が存在する。前者の優越願望は、他者への優越を示す為に命も惜しまぬ気概。後者は、他人と同等に認知されたいという自由民主主義の根本にある気概である。アイソサミア(対等願望)に基づく自由民主主義社会においては、メガロサミア(優越願望)は、血生臭い闘争ではなく、その代替物である経済活動などに昇華される。とは言え、これはあくまで代替物に過ぎず、自由民主主義社会は、メガロサミア(優越願望)を持った潜在的独裁者の存在に脅かされている。
※メガロサミアとアイソサミアから見る国際政治
 戦争が基本的に認知への欲望によるものだとすれば、かつての奴隷を自らの主人に代え、主従関係を一掃する自由主義革命は、国家間の関係にも影響を及ぼす。自由民主主義は、自国を他国以上に優れた国家として認知されたいとするメガロサミア(優越願望)を、他国と対等なものとして認められたいとするアイソサミア(対等願望)に置き換える。自由民主主義に覆われた世界は、そのどれもが互いの正当性を認め合うために、戦争を引き起こす原因は限りなく少なくなる。


19:17・気概や優越願望を平和理に昇華する仕組みについて
→自由民主主義国家においては、他者に優越したいという人々の意識を経済活動で昇華させる。また政治の分野においても三権分立やチェックアンド・バランスなどの仕組みによって、優越願望を抱く人間の気概は抑制され、独裁政治は防がれる。

21:45・共産主義社会の真の問題点とは
→経済的要因ではなく、人々の認知や気概を満たさなかったこと。

35:45 ナポレオンのベルリン入城
(画) シャルル・メニエ
 ヘーゲルは、プロイセンを打ち破ったナポレオンがイエナの町を凱旋するのを見て、次のように評した。

「世界精神が馬に乗っている」
"Weltseele zu Pferde"


 
参考文献:フランシス・フクヤマ著 渡部昇一訳『歴史の終わり』 三笠書房 1992年3月

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