【日本の城】徳川家康が「どうする」か本気で悩んだ「浜松城」三方ヶ原合戦で武田信玄が攻めなかったのは奇跡だった!
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 Published On Jun 25, 2021

#どうする家康
動画内の説明は現地案内看板等の内容を基にしたものです。史実と異なることがありますのでご承知ください。

家康の人生で最大の危機と言われる三方ヶ原合戦。本拠地での戦いで敗北した家康は、武田軍から浜松城を守る術を失います。しかしこの直後、信玄は陣中で病死し武田軍は甲斐に引き上げることに。
浜松城の跡は、現在公園として整備されています。無料の駐車場から城の中心部まで近く見学しやすいのですが、そのまま天守に向かってしまうと浜松城のいいところを通り過ぎてしまうので、今回はちょっと遠回りしながら天守に向かおうと思います。
浜松城の石垣は自然の石を加工せずそのまま積み上げた野面積という積みかたです。隙間があって雑な感じがするのですがウラには小さな石を詰め込み非常に頑丈な作りになっているという事です。この石垣400年前からずっとここにあるものということなので、貴重ですよね。徳川家康の像がある場所が本丸の跡。開発によって多くの部分が削られていますが、おそらくここに家康の居館があったのだと思われます。家康が浜松城にいたのは17年間。その間に三方ヶ原、長篠など多くの戦いに参加し、また息子信康の死や本能寺の変など歴史を変えた事件もこの城にいたときのできごとです。家康はここでどのような思いをめぐらせたのでしょうか。徳川家康は、東から勢力を広げてくる武田氏に対し本拠を遠江に移しました。はじめ、現在の磐田市見付に新たな居城を築く予定でしたが天竜川を背にすることから中止し、現在の位置に浜松城を築いたと言われています。浜松城のある位置は天竜川を越えて初めての大きな台地の端の部分。東からの攻撃に備えるには最高の場所です。
この付近には曳馬城という城がありました。現在の東照宮のあたりです。家康は台地の端にこの小さな城を取り込んで城を築き浜松城と名付けます。家康時代の浜松城は土塁に囲まれた土造りの城で、石垣や瓦葺建物を備えていなかったようです。現在見られる石垣は、徳川家が関東に移ったあとここに入った豊臣大名堀尾吉晴の手によるものです。天守もこのころ建てられたと思われますが江戸時代初期には失われ、以後再建されることはありませんでした。江戸時代、浜松城には徳川譜代の大名が入城し、幕府の要職を多く輩出したことから出世城と呼ばれます。

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