鞆皿山焼の窯跡〜保命酒のふる里を訪ねて〜
YUKIO YASUHARA YUKIO YASUHARA
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 Published On Jun 6, 2012

鞆皿山焼の窯跡 - 2012年6月4日撮影
この窯は慶応元年(1865)「鞆皿山焼」として鞆ノ津(広島県福山市鞆町)の豪商中村吉兵衛によって築かれ、保命酒のとっくりのほか、鉢や花瓶などを焼いて関東、関西方面に出荷。十二の焼成室からなる有段式連房窯の登り窯で、たき口から煙突まで全長50・9メートル、最大幅8・5メートルで幕末の時期に造られた窯では全国内最大級。陶工によって受け継がれたが、1938年に廃止された。

薬用酒である保命酒は,1659(万治二)年中村吉兵衛が「十六味地黄保命酒」と命名して鞆の津で製造をはじめました.1685(貞亨二)年には、福山藩から醸造独占権を得て販路を拡大しました。
保命酒の容器は,初めは備前焼の陶器を使用していましたが,生産量の増加につれて,また、容器に付加価値をつけて販売するために、全国の様々の陶器を使うようになりました。
幕末には,自ら容器を製造することが必要となり,1865(慶応元)年に鞆梅谷皿山窯で作られるようになりました。ここでは,徳利,花器,漁具などが焼かれ,鞆皿山焼ともよばれていました。
しかし、この窯も1938(昭和13)年頃には廃れ、いつの間にか忘れられてしまいました。現在,この窯跡は一部崩壊しているものの、12の焼成室からなる連房式の登り窯で、天井が残っているの全国的にも珍しいものです。保存状態もよく土取りの跡や池、井戸、制作場などが残っているのも特徴です。

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