第233回「すべては一に帰り、一はどこに」2021/8/27【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師
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 Published On Aug 26, 2021

本日の管長日記は、「すべては一に帰り、一はどこに」です。
最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。

本日もよろしくお願いいたします。
 
■管長日記「すべては一に帰り、一はどこに」
https://www.engakuji.or.jp/blog/34111/
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『碧巌録』に「万法、一に帰す、一いずれの処にか帰す」という公案があります。
第四十五則にあります。

ある僧と趙州和尚の問答であります。

岩波書店刊行の『現代語訳 碧巌録』にある訳文を参照しましょう。

僧が趙州に問うた、「あらゆる現象は一に帰結します。一はどこに帰結するのですか」。

趙州、「私は青州で、麻のひとえの衣を仕立てた。重さ七斤」。

というものです。

これだけの問答なのですが、奥深い問答であります。

まず「万法」とは何でしょうか。「あらゆる現象」と訳されています。

平田精耕老師の『禅語事典』の解釈によれば、

「この「万法」とは、諸法ともいい、森羅万象(差別的現象)のことです。」と書かれています。

一は何かというと、「「一」とは絶対的な本体あるいは真理のことで、禅家では自性・主人公・本来面目ともいっています。」ということです。

それで、万法が一に帰すということは、「つまり、「万法帰一」とは、千差万別の現象は、宇宙の絶対的本体から派生したものだから、結局唯一の絶対的本体に還元されてしまうという意味です。」と平田老師が解説される通りです。

それはまた「同時に、万法が「一」という絶対的存在に帰してしまうのだから、その絶対としての「一」は、また現象としての諸法に帰してしまうことにもなります。」ということでもあります。

趙州和尚が、「私は青州で、麻のひとえの衣を仕立てた。重さ七斤」と答えたことは、どういうことかというと、「この趙州の答えは、法衣を新調することも、その重さを計ることも、さらには喫茶炊飯、運水搬柴といった起居動作のすべてが、絶対の「一」に帰するところでないものはない、逆にまた「一」は、現象としての万法の上に現われる、という意味に理解されています。」
ということになるのであります。

整理しますと、万法は、差別の世界であり、森羅万象、あらゆるもの、山川草木であり、目に見えるものであり、般若心経でとかれる「色」であり、有と無でいえば、「有」なのであります。個々別々の個体としての生命であります。

一は何かというと、平等の世界であり、それは自性、主人公、本来面目、仏性というものであり、般若心経でいう空であり、有と無でいえば無であり、目に見えないいのちそのものであります。

個々別々の個体としての生命ではなく、ひとつながりになったおおいなるいのちであります。

その平等の世界、無の世界、色が、再び、差別の世界に帰るのです、それは禅では日常の動作に帰ることと言います。

あらゆる存在であり、色であり、有であり、日常の喫茶、炊飯、運水搬柴の行為に現れるのです。

差別の世界が平等の世界に帰って、再び差別の世界に戻るのです。

色が空に帰り、また色に帰るのです。

有が一度無になって、再び有に帰るのです。

昔の禅僧が、修行する前は、山は山であった、修行してみたら、山は山でなくなった、更に修行してみたら、やはり山は山であったと説いています。

山は山であるというのが、色であり万法です。

山は山でないというのが、空であり一なのです。

それがまた山は山という、色の世界に、万法に帰るのです。

それならば、はじめの山は山だというのと同じではないかと思われます。

万法一に帰るということも、何も一に帰らなくても同じだと思われるかもしれません。

鈴木大拙先生の言葉では、分別の世界が、一度無分別の世界を通して分別の世界に帰ると、それが無分別の分別というになるのです。

一度否定を通してみると、

無分別、空、無を一度透過することによって、再び分別、色、有の世界に帰った時には、こだわり、とらわれ、かたよりが無くなるのです。

それを般若心経では「無罣礙」と言いました。執着が無くなるのです。

また般若心経では、「恐怖有ること無し」と説かれています。

本来平等であり、空であり、無であると体験していれば、無くしてしまうことに恐怖も不安もないのです。

そこではじめて「無功用行」という見返りを求めない行為ができてきます。

それが、四弘誓願という誓いになって現れます。

これは、衆生は無辺だけれども誓って救ってゆこうという願いです。

これは永遠にかなえられないものです。

かなえられるという思いを持たないのです。

本来空であり、無でありますから、なにもかなえられるということはないのです。

そこで、でてくるはたらきを大拙先生は「真空妙用」と表現されました。

真空から実に妙なるはたらきが出るのです。

それが、何の見返りも求めない、真の慈悲になって現れるのであります。

平田老師は、「人間のやっていること、すべての行ないは本米空ですが、空だからといって何もしないということではなく、やっていながら空であり、空でありながら、しかもそのなかで飯を食い、水を運んで生活をしている。そういうことを自覚させるひとつの問答がこの「万法帰一」です」と解説されています。

空や無ということを、大きなつながりのいのちの世界と受け止めたいのです。

その大きなつながりの中で、固有の実体にこだわることには意味がありません。

大きな関係の中で、ただお互いに関係を及ぼし合っているだけなのであります。

そう思うと、自在にはたらくことができます。

ただ、そのはたらきだけがあるのです。

何も見返りなど必要ないのです。


横田南嶺
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