日本史と城 戦国の世を終わらせた小さな城【名胡桃城】沼田裁定の裏にある秀吉の罠?
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 Published On May 10, 2021

名胡桃城防衛作戦及び沼田裁定についてはいくつかある説を取り上げました。史実と異なる可能性があります。
豊臣秀吉による小田原征伐。かつてない大軍を以て東国に攻め込んだ豊臣軍は、関東の覇者北条家を滅ぼし、天下を統一します。この大きな戦いのきっかけとなったのは名胡桃城という小さな城を巡る争いでした。
名胡桃城は戦いのためにだけに築かれた城。城主が入れ替わる度、何度か改修されていたようです。
名胡桃城は使っていくうちに城の中心が本郭から二の郭に変更された可能性があります。当初は現在の本郭を城の中心として使っていましたが三の郭ができ二の郭の防御が強化されたタイミングでこちらを城の中心として使用するようになったようです。現地を訪れてみると二の郭のほうが広く、使いやすそうな感じがします。敵が近づけないこんなに険しい谷に囲まれた平坦地をよくぞ探して城を築いたものです。
名胡桃城は北条家によって攻撃され奪い取られたのではなく、真田が城から出たので、北条の兵が入城しただけだったかもしれません。「名胡桃城は北条の城である」と秀吉に認めてもらったと北条家が思っていたような文書が残っており、なかなか出ていかない真田がやっと退去したので猪俣邦憲を入城させました、というのが実際だったのかもしれません。北条氏は、なぜ味方の城に入城しただけなのに秀吉から討伐命令が下ったのかさっぱりわからない状態であり、一方で小田原を攻める豊臣大名は「北条は約束を破って真田の城を奪ったのだから攻撃されてもしょうがない」と思っていたのかもしれません。わざとはっきりしない領地配分を行い誤解を生みそうな城のやりとりを行わせたのが秀吉の策略だったら・・怖いですよね。
北条家が滅亡し北関東に平和が訪れると城は政治の中心として使われるようになります。戦いのためにだけにつくられた名胡桃城は、使われることがなくなり自然の中に埋もれていきます。

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