東北有数の霊場にて、建武の忠臣・北畠一門を祀る社:福島県・霊山神社 (Ryōzen Shrine | Shinto Shrine in Fukushima Prefecture)
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 Published On Feb 24, 2024

▼チャプターリスト(目次)
0:00 オープニング
0:22 社号碑、北畠顯家像
0:33 鳥居、参道
1:27 手水舎、神門
2:25 拝殿
3:15 本殿
3:51 境内摂末社
4:13 霊山城跡

どうも管理人のヒロリンです。

今回は福島県伊達市に鎮座する霊山神社(りょうざんじんじゃ)を紹介したいと思います。

ここ最近、将棋界を賑わしている藤井聡太先生。最年少でプロ棋士となり、最年少でタイトルを獲得し、更には前人未到のタイトル八冠を獲得するなど、異次元の頭脳と精神力で日本中を賑わしています。

まさに神童。

しかし、歴史を紐解いてみると、藤井聡太先生のような「神童」と呼ばれる人は結構いるものです。今回ご紹介する福島県の霊山神社で祀られている北畠顕家(きたばたけあきいえ)公もそんな神童の一人。

今日は、北畠顕家公とはどんな人物なのか?というところから説明を始め、霊山神社とはどんな神社なのかについて説明してみたいと思います。

1333年5月、第96代後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は鎌倉幕府を攻め滅ぼすと、天皇自らが政治を行う「建武の新政」を開始。しかし幕府を滅亡させるのに貢献した足利尊氏(あしかがたかうじ)が突如として朝廷に反旗を翻し、光明天皇(こうみょうてんのう)を擁立。京都に北朝が開かれます。

すると後醍醐天皇は京都から吉野へ逃れ、同地に自らを主宰とする南朝を樹立します。こうして国が二分されて、60年近く続く南北朝時代が幕を開けることになります。

南北朝時代に南朝軍総帥として獅子奮迅の活躍を見せるのが北畠親房(きたばたけちかふさ)公の長男・北畠顕家公です。顕家公は出生直後から将来を嘱望(しょくぼう)され、幼少期より学問や兵法を学び、早くから異次元の才能の片鱗を見せます。

以後、先例のない昇進速度を見せ、14歳の時に『参議』という官職につきます。この「参議」という官職は現代でいったら国務大臣のような位です。日本史の歴史の中で彼ほど若い歳で「参議」に登り詰めた例はありません。まさに神童。

そして、1333年に鎌倉幕府が滅びると、彼は15歳の若さで陸奥守(陸奥国司)に任じられ、陸奥国(現在の東北地方の太平洋側)の統治を始めます。国司というのは現代でいったら都道府県知事に相当。それをたった15歳の若さで・・・恐るべき少年です。

更に、北畠顕家公は凛々しい美少年だったと日本各地で語り継がれており、足利尊氏ら武家と互角以上に渡り合った才色兼備の公卿で、生涯を熾烈かつ、優雅に歩んでいくことになります。

しかし、般若坂の戦いで敗走、その後戦力再建を図るも1338年に大阪の「石津の戦い」で足利勢に敗北。最後は落馬したところを討ち取られるという壮絶な戦死を遂げます。21歳というあまりにも早すぎる死でした。

21歳の若さで夭逝(ようせい)した北畠顕家の短くも強烈な輝きは、南北朝時代を舞台にした「太平記」という文学作品などに描かれ、今も語り継がれています。

さて、そんな北畠顕家公を祀る神社は日本に二つあります。一つ目は北畠顕家が戦死したと伝わる地に創建された大阪の阿部野神社、そしてもう一つが今回紹介する福島の霊山神社です。

霊山神社が鎮座する場所は、福島県伊達市にある「霊山」の西方山麓。霊山は北畠親房公以降の北畠一門の本拠地で、顕家公が陸奥国府を置いていた場所です。

1876年(明治9年)に明治天皇が東北を巡幸した際に霊山を望んで黙礼。北朝との戦いに敗れた顕家公など北畠一門の霊を弔われました。

その出来事をきっかけにして明治14年に霊山に顕家公の他、北畠一門を祀るための霊山神社が創建され、建武の中興に関わった皇族・武将を祀る「建武中興十五社」の一社となりました。

霊山は非常にアクセスが悪いところにあり、更には参道には急こう配の階段が続くことから参拝客はあまりいませんが、京都の嵐山から移植されたと伝わる境内の楓が夏の時期でも様々な色合いで参拝客を魅了し、顕家公の栄光を偲ばせてくれるかのようです。

Ryōzen Shrine is a Shinto shrine located on Mount Ryōzen in the former town of Ryozen, within the city of Date, Fukushima Prefecture, Japan.

The shrine was founded in 1881, and enshrines the kami of Kitabatake Chikafusa, Kitabatake Akiie, Kitabatake Akinobu, and Kitabatake Morichika. It is one of the Fifteen Shrines of the Kenmu Restoration.

Kitabatake Akiie was a Japanese court noble, and an important supporter of the Southern Court during the Nanboku-chō Wars. He also held the posts of Commander-in-Chief of the Defense of the North, and Governor of Mutsu Province. His father was Imperial advisor Kitabatake Chikafusa.

In 1333, Akiie was ordered to accompany the six-year-old eighth son of Emperor Go-Daigo, Prince Norinaga (also read as Noriyoshi), to Mutsu, where the Prince became Governor-General of Mutsu and Dewa. These two large provinces constituted much of the north-eastern end of Honshū, the area now known as Tōhoku.

In April 1333, he was appointed to the post of Chinjufu-shōgun, or Commander-in-Chief of the Defense of the North. This was a position that had been held by Minamoto no Yoshiie two hundred years earlier. A number of families formed a league under his direction, supporting the Southern Court; these included the samurai families of Yūki, Date, Nambu, Soma, and Tamura.

In 1337, despite facing opposition at home in the north, Kitabatake was ordered by Emperor Go-Daigo to come to the aid of his army to the south of Kyoto. Kitabatake led his forces slowly south, fighting the Northern Court in many battles. He was defeated at the Tone River before pushing south and occupying Kamakura, the capital of the Ashikaga shogunate, and making his way to Nara, fighting at Iga and Sekigahara. In Nara, while trying to rest and reorganize his forces, he was set upon by Kō no Moronao and barely escaped to Kawachi Province. He recouped and pushed through enemy forces at Tennōji (near modern-day Osaka), but was eventually defeated and killed at Izumi in 1338 at the age of twenty-one. His death is described in the epic Taiheiki and in his father's Jinnō Shōtōki.

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