小鹿谷 ~ 上山城(うえやま じょう)ハイク ー 畝状竪堀トリオが行く!目指すは番城-その1- マイナー過ぎて情報がほぼ無しの上山城[鳥取県 湯梨浜町 小鹿谷(とっとりけんゆりはまちょうおしかだに)]
Play in Tottori Japan Play in Tottori Japan
679 subscribers
357 views
19

 Published On May 12, 2024

9ヶ月ぶりに畝状竪堀トリオにて山城歩き。今回は戦国時代に鳥取中部が一番 注目された天正9年(1581年)の吉川元春と羽柴秀吉た対峙した時に築城されたと言われる番城を目指し、小鹿谷より山に分け入る。

今回も湯梨浜町付近のトレイルの専門家である さっぱんさんがルートを確認していだだき、東伯耆の郷土史の専門家、とん吉さんの知見が光ります。相変わらず私は賑やかしの役割しかできておりませんが向う2~3回ほど今シリーズにお付き合いいただけると幸いです。
ご想像の通り、今回も草木ばかりで眺望はありません。「せめてドローンを持って来ていれば…」と後悔をしましたが、この日は強風の予報ということと、私が病み上がりで水分を多めに持ってきたことでザックの積載量的にも難しかったです。

撮影日:2024/4/18

※ さっぱんさんのキャラ説明が「冒険家」となっていますが、正しくは「日帰り冒険家」です。
 次回から以前のように「山登り愛好家」に戻します…

※ 今回、さっぱんさん と とん吉さんが手にしている上山城の縄張り図は出典が不明、著作等の不明なので詳しく出していません。見ていてもどかしいかもしれませんがご容赦下さい。

※ 今シリーズ内にてファウスがそれっぽく「へいさく」という言葉を使っておりますが、正しくは「削平(さくへい)」です。そのような言い回しがある訳では無く、単に無知なだけでございます。

削平(さくへい)=山などの斜面を平らに削って造成した人工的な平面

----------------------------
本シリーズを楽しむための補足

・番城について
羽衣石城の北北東500mの位置に築かれ、標高は400mで羽衣石城よりも高い。羽衣石城の物見をする砦であり、羽衣石城も東郷池も望める。一部に帯曲輪の遺構が認められ、織田・豊臣式の作りが示唆されており、秀吉が天正9年(1581年)の件のために作られたものであるという推察もある。

----------------------------
・上山城について
 標高261m。羽衣石城の北北東1700mに位置する。
 殆どネット上に情報が無く、郷土誌(動画内でさっぱんさんが独自に調べたのは東郷町誌)を当たるしかないのかもしれない。
 南条家の家臣が任に就いていたとの記述があり、羽衣石城の支城として天正9年(1581年)以前より在ったものと推察される。

以下 東郷町誌より引用
https://www.yurihama.jp/town_history2...

 上山(小鹿谷) 『伯耆民談記』などに、上山越(腰)と書かれている。戦国時代、南条氏の重臣進ノ下総が守ったと伝えられる。標高261メートル。本城の北北東1700メートルにある。地元の人は「お山」と呼ぶ。本城に峰つづきである。

----------------------------
・天正9年(1581年)の羽柴秀吉と吉川元春の対峙について
(いずれ解説動画を作ろうかと思っておりますが、全く着手していません。鳥取中部が戦国時代に注目された一件で、鳥取中部民が歴史を語る際には必須の知識)

以下は湯梨浜町HPの史跡の概要より引用
https://www.yurihama.jp/soshiki/20/13...

馬ノ山の対峙と十万寺城
 東伯耆の国人・南条氏は、戦国期には毛利氏と手を結び、出雲の尼子氏滅亡後は、伯耆三郡を支配する毛利氏山陰支配の一翼を担う存在であった。

 天正3年(1575)、当主の南条宗勝が病死して元続が跡を継ぐと、織田信長による調略が開始された。元続は同7年に毛利方の家臣を討伐し、織田方への寝返りを鮮明にした。南条氏を味方に引き入れた翌年、織田信長家臣の羽柴秀吉は因幡へ侵攻した。

 天正9年(1581)6月、秀吉は2万余りの兵を率いて第2次鳥取城攻めを開始し、城兵への兵糧攻めに成功する。毛利方の吉川元春は、鳥取城救援のため月山富田城から兵を東へ進めた。吉川勢はまず南条氏の羽衣石城攻略を目指し、10月25日には馬ノ山に陣を布く。そしてさらに前進しようとしていたところに、鳥取城落城と吉川経家自刃の知らせが届くことになる。

 その頃、秀吉は姫路へ帰陣の準備を整えていた。そこに南条元続とその弟・小鴨元清から助勢要請が届く。それは吉川元春が、羽衣石城攻撃の準備をしているという内容であった。秀吉は10月27日、「高山」に着陣し馬ノ山の吉川元春と対峙したと、江戸時代の地誌類に書かれている。

 秀吉軍数万に対し、吉川勢はわずか6千だったとされるが、鳥取城で散った吉川経家の弔い合戦に望むべく、その戦意は高かった。秀吉は犠牲を考慮して決戦を避け、羽衣石城に食料と弾薬を補給することにした。峰伝いに輸送を開始する秀吉軍に対し、吉川勢は松崎付近まで出撃し妨害を加えたという。無事に物資を補給した秀吉は陣を引き払い、元春も主力を率いて月山富田城へ帰陣した。両軍は互いの実力を認め合った上で、衝突することなく撤退したといわれている。

 この秀吉が着陣した「高山」について、従来は馬ノ山の南東2kmにある「御冠山」説が定説であったが、近年「十万寺城」であったとする説が注目されている。十万寺城は眼下に羽衣石城を見下ろすだけでなく、その先の馬ノ山までをも見通すことができる。また、番城も同時期に救援のために築かれた山城である可能性がある。

 織田・豊臣政権の陣城の遺構としては、小谷城攻め、三木城攻め、鳥取城攻め、小田原城攻めなどの際に築かれたものが残されているが、これらの陣城はすべて城攻め用のものである。しかし十万寺城は、城攻めではなく羽衣石城の南条氏の救援のために築かれた城とみられ、他に類例のない貴重な遺構である。

------------------------------

エセハイカー SNSアカウント

チャンネル登録と併せ、フォローいただけると幸いです。

Twitter(ツイッター)
  / hikertwit  

Instagram(インスタグラム)
  / impersonati.  .

-------------------------

#上山城#山城巡り#鳥取県湯梨浜町小鹿谷

show more

Share/Embed